芦川の学校(下)ー小さな社交場で学ぶ

朝日新聞「第2山梨」やまなしに想う(第4回)(2007.2.17朝刊掲載)


 芦川中学校を丸一日参観させていただいて、強く印象に残ったのは、子どもたちの穏やかさと、友だちとの関係の柔らかさであった。たしかにこの雰囲気は、ある種の登校拒否の子どもにとって、ストレスが少なく、入っていきやすいものだと感じられた。

 翌週、中学校と廊下続きの小学校を参観させていただいた。そして、私が最も心ひかれたのは、給食の光景であった。1~6年生の子どもたち全員と教職員が一堂に会し、6、7人くらいずつでテーブルに着いて昼食を取るのだが、驚いたのは、1年生も含めて全員が役割を持ち、じつに手際よく配膳していたことだ。混乱も喧噪もない。後で聞いたところによると、給食の後片づけ、掃除なども、ごく自然に上級生が下級生に教えていくのだという。
 食事が始まると、教師は授業とは異なる顔を見せ、ムードメーカーとなる。子どもたちは、年齢の異なる子どもや大人の話に耳を傾け、背伸びもしつつ応答し合う。下級生の幼い言葉に、上級生や大人たちは笑顔で返す。大人同士の話も始まる。せかされることなく、会話に入れなくても疎外感がない。ほどよい浮き立ちと、ほどよい落ち着き。
 

 これは小さな「社交場」だ。この子どもたちは、このような場で、いい意味での社交性と、節度あるユーモアに満ちた気質を養っていくのだと納得させられた。

 

 芦川の小中学校は、けっして特別な学校ではないが、個性的である。個性的だというのは、たとえば、東西方向の谷筋地形ならではの豊かな陽光や、圧縮されたかのごとき空間に張り付いた生活、地域の大人たち・子どもたちの営みと人間関係が、学校のさまざまな場面、子どもたちのさまざまな活動の土台にあり、反映してもいるという事の道理だ。

 地域の個性と、学校の個性は、切り離すことができない。そして、こうした芦川の学校の個性が、結果的に、ある種の登校拒否の子どもに、「ここなら通える」と思える雰囲気を提供しているということなのだ。加えて、芦川のように、凝縮された、丸ごとの生活が残る地域には、子どもの「生きる力」を鼓舞する特質が、本来的に備わっているのだと思う。人は誰しも、抽象的に「生きる」のではなく、具体的に「生活する」ほかはない。この現実に向き合い、引き受けていく契機としての、いわば生活の「かたち」が、そこにはある。

 

 学校がなくなり、子どもがいなくなれば、地域の命脈は絶たれる。生活の「かたち」は失われる。その代償に見合うものがあるとは、私には思えない。

 

(にしもと・かつみ=都留文科大学教授)
 

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